公教育の限界

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全国の公立の小中高合計で、「学校の先生が1500人不足している」とのニュースがありました。

由々しき事態です。

日本の未来を担う子どもたちを教育する先生が、激務で余裕の無い職業になってしまっています。

こうなっている本質は「昔ながらの公教育システムと現代の感覚がミスマッチだから」だと思います。

 

学校の先生の業務は科目の指導はもちろん、進路指導から生活指導、部活動まで多岐にわたります(他にもまだまだあります)。それをまだ自分で責任の取れない、未成年の子供相手に行うのです。その大変さは、子育てをされている保護者の方ならわかると思います。

当然ながら「何時から何時まで」というような時間で区切られるような仕事ではないのですが、規定以上の残業代は支払われないことが法律で決まっています。

 

もっと待遇を良くするとか、業務を減らすとか、そういったかじ取りを国にはしてほしいと思うのですが、やれ「自主性を重んじる」だの「英会話」だの「プログラミング」だの、従来の教育課程に追加項目を増やし、逆に業務を増やしている格好です。

 

また、指導法に対する社会の目も厳しくなりました。

度を超えた体罰などはもちろんいけないのですが、少しでもクレームが出れば先生に非があるように言われてしまう。まだ右も左もわからない未成年を指導するのですから、ある程度の厳しさは必要ではないのかと、実体験からも思います。

 

「公教育」とは大雑把に言えば、「国民はみんなこのくらいは学びましょうね」というレベルの勉強を教えることが主な目的です。

「公教育にできることには限りがある」ということを、国も個人も、もっと認識するべきではないでしょうか。

 

使命感や自己犠牲の上にのみ成り立つ公教育では、いつか破綻します。

先生の待遇が良くなってほしいです。そうすれば、優秀な人が先生を目指します。

そして指導に関して、もう少し寛容な世の中になってほしいと思います。